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「不足感」から始めない−人を尊重するために自分との接し方を見直したい

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いまのままの自分ではダメだと思っている。現状への「危機感」を原動力にしないと、自分は努力しないのではないか。何か目標を決めたところで、結局やらないのではないか。こういった話題から受ける感覚は、馴染み深いものです。

これは「いまの自分」には足らないことばかりだからもっと頑張ろうという発想が出発点になっています。最近、このことに疑問をもつようになりました。

たとえばスキルアップ研修に出たり研鑽を積んで、援助者としての自分を高めていこう。これの何が悪いのか?と思いませんか。むしろ、こうやって努力すべきだと私は考えてきました。

自分に対して厳しく接するのは、別に問題ないように思います。しかし「足らない」からもっとと言うとき、実際には何が不足しているのでしょうか。私は漠然とした不安を抱えているのが安心という、おかしな状態が普通でした。

依頼内容によって「必要」になることはあります。ご相談で戸籍の知識が必要になり、詳しい方に教えていただきました。このように具体的に求められれば、すぐに行動します。

だからこそ知識を増やして、事前にできる準備はすべきではないか。これが前提だったのですが、ふと思いました。具体的な依頼があってから準備すればいいのではないか。戸籍の例でも、何か不都合はあったのだろうかと。困るかもしれないという不安は拭いきれませんが、実際の問題は見当たりませんでした。

「足らない」「もっと頑張らねば」という気持ちは、依頼者に応えるためではなく、自分の不安に基づくものでした。この視点からの自称「努力」は援助に活かせないと思います。

何となく足らない感じがするし、そもそも努力はすべきだという考え方は一般的です。価値と技術の混同といった指摘もできるかもしれません。それでも私は、言葉のニュアンスではなく、根本的に異なると思っています。

私たち援助者は、利用者の価値を信じ、意思決定を尊重します。

では、自分自身に対してはどうでしょう。自分を信頼し、価値を信じているでしょうか。

もっと言えば、自分は不足した存在だから信じていないけれど、利用者は大事なお客さんとして尊重します。こういった物差しの使い分けが、本当に可能なのでしょうか。

私の価値は少ないから増やしていきたい。この発想に立つ限り、利用者の価値も「少なく」見積もっているのでは。こう思って愕然としました。まったく相手を信頼していないじゃないですか。

「不足感」から世界を眺めると、自分と同じように人もくすんで見える。

だから自他ともに信頼を培っていきたいと思います。

人の価値は減ったり増えたりするものではない。このことを継続的に考えていきます。

自分が使ってきた「物差し」を手放す