前回の記事を書いた後で思いました。私はいつから「評価する立場」になったのだろうと。
私は、相手の価値を「低く」見ていないだろうか
相手を尊重することが大事とか、その評価が高い低いといった問題ではありません。
なぜ私は誰かの価値を「値踏み」してしまうのか、気になりました。
こうやって理屈はつけられますが、思い当たるのは次のことです。
説明を求められたときに答えられるように。このとき私の目は本人に向いているのではなく、本人以外を気にしている。責められないようにと怖がっているのです。
相手を大事にするための「評価」が、自分を守る「口実」になっているのではないか。
いまの私にとって難題にぶつかりました。
そこで具体的に考えてみます。
たとえば拘置所で面会するとき、相手にどんなことを感じているだろう。
いろんな事情を抱えているので、こう聞くとは限りません。
でも質問の答えに関係なく、あなたはあなたの人生を取り戻してほしいと願っています。このときの私は「相手に価値がある」と信じているだけで、どのように評価すればよいか等と考えないことに気づきました。
人の価値は等しく「ある」もので、たとえ犯罪をおかしたとしても根本的な価値は「揺らぐ」ものではありません。起訴された「罪名」によって、私の姿勢が変わる訳ではないからです。
それなのに、どうして価値を判断しようとしたのだろう(おこがましさを猛省中)。
相手には高齢、病気、障害、生活困窮などがあり、社会的な支援を必要としています。
焦点をあてるのは、さまざまな事情であり環境面です。決して、前提の「価値」ではなかったのです。
他者に対しては、こう考えています。次の課題は、自分にも同じように価値を認められるかということ。きっと両者は切り離せないと感じています。でも、まだ実践はできません。
倉園佳三さんのパーソナルセッションを通して考えたことを書きました。