人の優劣をはかる考え方に抵抗があって、「人を大事する」という本質的な部分に焦点をあてたいと思いました。
大胆にも長楽庵は「一人ひとりを大切する社会への変化」の一端を担いたいと思っています。
前回は、相手への姿勢を振り返りました。
もともと絶対的な価値が人に備わっていて、誰かに見出されたり判断されるものではない。
他者の「あるがままの価値」を前提にしているのだから、自分に対しても同じ姿勢でのぞむのが自然なはず。同じ根っこを感じるのに、そうしようとすると難しい。
こんなことを書きました。
人にそうするなら、自分にも同じように……と考えようとしたけれど、自分のときは物差しを替えることに思い当たり、ここを掘ってみないといけない気がしました。
自分だけは別の物差しでみたい。つまり特別な「意味づけ」をしたい。うさんくさいです。この気持ちに目を向けないと、また他者を「評価」したくなってしまうのではないか。
自分がどんな物差しを使っているかを確かめて、人にも同じようにしているか。順番をかえて考えてみます。
Contents
相模原事件から引っかかっているのは、そこに「共通する発想」があるとしたら(大変認めにくいですが)、それは何かということです。
なぜ「彼」は人の価値が「ない」と線引きするようになったのか、誰しも感じたことだろうと思います。では、そもそも人の価値をはかろうとしてこなかったか、今度は自分に問いかけます。
人の言動に「意味」をつけてしまうと、私は気持ちがザワついてきます。そして疲れます。
一方で「評価」などしないときには、曇りのない気持ちで実践に集中しているのではないかと思いました。
「地続き」だとしたら、それは「物差し」を使うこと自体にあると考えるようになりました。
すべての人に価値がある。優劣を判断されるものではなく、ただ「ある」。
この考えを実践にうつすとき、私には二つの選択肢があります。
私は「物差し」を使うことをやめ、心地よいほうを選ぶことにします。
そのために日常で自分がまた使っているなと自覚することから始めています。「意味づけを手放す」練習は続きますが、人と比べないのは穏やかで楽しいです。
自他ともに「心地よさ」が広がっていくといいなと願っています。
ご縁があって倉園佳三さんのパーソナルセッションを受けることができ、考えていることを書きました。
倉園さんのご著書に、エッセンスが詰まっています。
ぜひ「心地よさ」を皆さんにも実感して頂きたいです。