いらすとやさんに「VRゲーム中に怪我をした人のイラスト」がありました。
「夢かうつつか」と言いますが、誰でも自分が見ている世界が「現実」です。口に出さなくてもそれが当たり前で、いわば世界観となっています。
VRに没頭して、例えばゲームにはまり込めば、その世界が現実のように錯覚する瞬間があります。もし腕をぶつければ、痛みを感じて現実に引き戻されます。リアルな夢を見ていれば、その中では間違いなく現実に違いないと思ったことがあるはずです。身の周りに「ほんとう」はたくさんあるのです。
こう考えると、私たちは各々のVRを見ていると想定した方が、援助者として大事なことを守りやすいと思います。利用者主体のような理念を実践できなければ、ソーシャルワーカーの存在意義が揺らぎます。この主張も私の仮想現実に基づくものですが、もう少しお付き合いください。
A:利用者は「幻」をみていて、援助者が「ほんとう」をみている。
B:利用者も援助者も各々「幻」をみていて、現実に近い「ほんとう(仮)」をすりあわせる必要がある。
私はAとBの両方を使ってきました。違和感を持ちながら、でも援助者の立場から、Aは「都合が良い」「そうでなければ自分が低く見られてしまう」といった幻を見ていました。
「ほんとう」を見定めることが専門職の役割だ、それが専門性を身につける目的だと考える立場(A)もあるでしょう。何も間違っていません。ただある時に、Aを目指してたどり着いたところに、利用者の大事なものがあるのか疑問を持ちました。
現実はあると思います。間違いなく、あるはずです。でも誰がそれを真実の姿のまま把握できるのでしょう。「そういうことにする」という(仮)のルールでしかありません。
我こそは現実を把握できるといった特権的な人はいないでしょう。人の認知はそんなふうに機能しません。だから私にとって専門性とは、VRの特徴なのです(B)。
利用者、当事者、サバイバーなどなど、いろんな呼び方がありますが、その人の経験や思いに「ほんとう」があると私は信じています。できれば現実がより良くなるように、見える世界をすり合わせたいと思います。