このブログで「ほんとう」シリーズを書いていますが、講義でも話しました。
社会福祉で「相手を尊重する」ためには、「ほんとう」は誰にも分からないから、相手にとっての「ほんとう」を確かめようといった話です。
私としては、権利擁護、尊厳といった言葉は特に大事だと受けとめていますし、「時と場合によって」できないこともあるではダメだと思うから。
講義のコメントで、学生さんから「じゃあどうすればいいの?」と心配そうな記述がありました。そうですよね。今日は、このことを考えます。
はじめてガーゲンの本を読んだとき、私も「え、すべてを相対的に位置づけて次にどうするの?」とざわついたのを思い出します。大げさなようですが世界観が揺らぐと、内容を理解できなくなります。落ち着かない感じ、分かる気がします。
私の「ほんとう」が「ほんとう」だと思いたい。分かりにくい文章ですが、自分中心に生きている感覚は誰でも共有できるはずです。誰でも自分のことを特別だと感じながら、世界の中で自分が特別な訳ではないと知っています。言い換えれば、この話は「人は客観的にものを見ることはできない」からスタートしています。
少し混み入ってくるようですが、実は単純です。
私以外の人には別の「ほんとう」がある。まったく同じものはない。ただ、それだけです。
私が自分中心に世界を感じるように、他の誰かも同じことをしているはずです。ここで大事なのは賛同できるかではなく、他人の「ほんとう」を見ようとしているかでしょう。
「人それぞれでいい」という表現があります。
相手の世界観に関心をもって尊重するつもりの「人それぞれ」なら、いいと思います。
でも「別の世界があっても私はそんなことを考える余裕はないし、関心もない」という意味で使うのなら、ちょっと待ってと言いたくなります。
突き詰めていくと、こうなりませんか。私の世界観は尊重されるべきだけど、人のは知らない。これで自分が尊重されると期待していたら、とても不自然です。
まして「専門職」というフィルターを通したとき、相手の世界も同じように大事と思えるでしょうか。口先の表現ではなく、感覚として「同じ」に近づけたいですか。ここら辺でじっと立ち止まって考えてみることがあると思っています。
私も自分のほうが「ほんとう」だと言いたくなりますし、このこと自体は自然な感覚だと思います。でも、これは私にとっての「ほんとう」に過ぎないのですから、相手の立場から何が見えているのだろうと考える必要があります。
この切り換えが、「人それぞれ」の違いに関心をもつ、つまり相手を尊重するためのスタートなのだと思います。
「ほんとう」を手放すと楽になって、もっと相手が見えてくる。でも正直に言うと、相手の立場から考えるのはしんどい時もある。
この話をもっと具体的に書きたいです。