私の父・長(ひさし)は転勤族のサラリーマンで、私も10回の引っ越しを経験しました。なかでも小学2年生を過ごした香川県丸亀市では、家の前に田んぼが広がっていて、用水路にはザリガニがいました。春はレンゲ摘み、稲の収穫後は田んぼの中を転げ回って遊んだ記憶があります。
最も思い出深いのは「ふじさわ君」です。
ふじさわ君は、同じクラスの男の子でした。とても立派な体格をしていて、話す時は見上げていました。子どもの頃はどう呼べば分からなかったのですが、今にして思えば、彼は自閉症傾向のある子どもでした。
朝は子どもたちが大勢固まって登下校しましたが、帰りは、家が近い「ふじさわ君」と一緒に帰っていました。彼とどんな話をしていたのか記憶は曖昧です。
ただ、彼は帰り道によく姿が見えなくなったのを覚えています。どこかで用を足しているようで、待ちくたびれた私は「ふじさわくーん、まだー?」と大声で呼ぶ。しばらくして、またフッと姿を現した彼と再び歩き始める、そんな日々でした。
再び父の転勤が決まり、引越しの日になりました。彼のお母さんがやってきて、大きな牛のぬいぐるみをプレゼントしてくれました。母からは「あなたが彼に優しくしてくれたこと、お母さんは嬉しかったみたい。そのお礼だよ」と言われました。
転勤先の神奈川県鎌倉市で、私は転校早々ひどいイジメにあって登校拒否になりました。
小学校3年ともなれば中学受験の準備が始まっていること、弱い者いじめが次々に回ってくることなど、初めて知ることばかりでした。私はおっとりとした関西の方言を話し、人に合わせるよりマイペースに行動していて、おそらく周りがいじめたくなる要素があったのだろうと思います。私は、異質な人間に対するその態度に驚き、怯え、鎌倉が好きになれませんでした。
ふじさわ君との帰り道は、お互いのんびりと歩いて、静かで、フッと姿を消したり現したりすることも「まあ、いつものことだ」と気にならない時間でした。私には、とても居心地の良い時間だったのです。私は大勢で大騒ぎするよりは、一人でのんびりしている方が好きで、彼は良い友達でした。
福祉の仕事について、ああ彼は障害児と呼ばれる子だったのかと分かるのですが、何も知らない当時は変わっているところのある普通の友達だったのです。
あの頃は相手が変わっていることよりも、普通の友達だという揺るがない前提がありました。いまになって、それが私の根底にあるのではないかと考えています。
同じ日本にいて、あるところでは異質な人間を排除しようとして、あるところでは人の違いは包み込まれて同じ友達であることが揺るがない。どんな環境に暮らすかによって、人生経験は大きく変わるのです。
だからこそ私は「ふじさわ君」と過ごした経験が忘れられないし、彼と過ごした居心地の良い時間を他の人達ともつくっていきたいと考えています。
ふじさわ君は仮名で、事業所のある藤沢市の名称を使いました。